2014年6月12日木曜日

いつ死んでもいいやと思う今日この頃

病んだような辛気臭いタイトルだが病んでもいないし世の中に絶望しているわけでもない。
2013年にゲリラ豪雨の被害に遭って家と車を失い、その時に大自然の前で人間の小ささを感じてからこの世に対してサバサバとした感情を持つようになり、現世に執着がなくなったとでも言うのだろうか。

ああ、いつでも死ぬなら死ぬでいいよ!ってな具合である。

どうせなら歴史的大事件が起きている福島県でフクイチでも見てやろうか?フクイチで働いてやろうか?という気になってなんとかフクイチに潜り込んだ。

だって、住居が無いんですもの、福島に行けばなんとかなるさ!って、いきあたりばったりなのである。
で、実際フクイチで働いてみると良いも悪いも報道とはかなりズレているなあ、と感じた。

あんまり細かい事は書かない事にしよう、良い事を書けば(東電の回し者か?)となるし、悪い事を書くと(ネトウヨかよ!)ってなるのでどっちでもイイや。

とにかくそこそこ高い報酬を稼いでいた訳ですが。。。。先日胸に激しい痛みを感じて病院に行ったところ、大動脈がぶっ壊れていて死にかけてしまいました。
で、死にかけたってだけで40日入院してしぶとく生きてるんだなこれが。

なんだろう?いつ死んでもいいなんて宣言しつつも心の奥底では生に対する異常な執着心があるのだろうか?その執着心が無意識下で具現化して既の処(すんでのところ)で生還する要因となっているのだろうか。
実際、過去にも数度死にかけの大病になってギリギリで生還してしぶとく生きているのである。

こうなってくると別の考えも出てくる。

「お前は現世でもっと罪を償え」

「死の向こうにあるパラダイスにはまだ来ないでくれ!」

みたいな宗教家の脅し文句が頭に浮かぶじゃないか。
人間は何者(神?)かに生かされているという人類の自己中的考えと支配者の常套句である。

果たして生きている事は罪なのか?
罪ではないのか?

生きている事が罪ならば100歳超えのお年寄りなどはとんでもない罪深い人になってしまうだろうし、幼い子が事故で亡くなったりすると

「この世に生きていても嫌な事ばかりなんだから早く天国に行けて良かった」

ってな話になる。

あああああ、その時々で都合よく考えればいいのか!例えばお年寄りが長生きしているなら

「100歳まで生きて後世に何かを伝える仕事が残っている」という具合に。

おお!そうか!ワタクシが生きているのも

「もっと生きて伝えなさい(何を?って話だが)」

「貴方は世の中に必要なのです(悲惨さを伝えるために?)」
という事か?

うーむ。。。。前向きに感じる事ができないなあ(笑)
生きる意味を考えよう!みたいなのはかたっ苦しくて嫌だしなあ。

とりあえず此度の大動脈パンクは胸が激しく痛かったけど死ぬときは朝目覚めないパターンがいいな、とつくづく思った欲深いワタクシでした。










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